書剣十年唯自憐

永井荷風の詩。少し面白い。 1927年の夏に作ったものというから、48歳くらい。

書剣十年唯自憐
不如午夢伴花眠
青雲有志帰虚願
羸得一囊詩酒銭

永井荷風は慶応大学の教授だったが、1916年に辞めて作家活動に専念するようになった。 「書剣十年」とはこのことを言うのだろう。 「書剣」とは文人が常に携帯するもののこと。 十年間、作家専業でがんばってみたが、ろくなことはなかった、花とともに昼寝でもしたほうがましだ、と。

文芸的な対立もあったかもしれんが、文壇ではもてはやされ、第一次大戦直後で景気も良かったのだろう。 その後関東大震災などあって昭和は絶不況。 辞めなきゃ良かったと後悔してもおかしくない罠。

青雲の志は空しい願いに帰した。 苦労して得たものは一袋の詩と酒代だけだと。

平仄押韻はきちんとしている。

永井荷風全集第20巻に「漢詩」という項があってここに明治31年(19歳)から昭和17年(63歳)のものまでが集められているが、ざっと50首くらいで、 そんなに多くはない。 漢詩をたくさん作ったというイメージがあるが違う。

ところで杜牧遣懷の結句では

贏得靑樓薄倖名

となっており、荷風がこれを参考にしたのは間違いない。 内容が似てる。 どちらも十年間がんばってみたけどたいしたことはなかったという自嘲の詩だ。 しかも、杜牧のほうに「載酒」というのが出てくるが、 これも荷風墨上春遊に出てくるのである。

よく見ると「贏」と「羸」は別の字であり、 「贏(えい)」は「勝つ」という意味だが「羸(るい)」は「疲れる」という意味になる。 紛らわしい。 杜牧の詩では普通「贏(か)ち得たり」と読む。 荷風の詩では「羸(つか)れ得たり」と読むしかない。

漢和辞典を見てみると他にも「蠃(かたつむり)」「臝(はだか)」「嬴(あまる)」「驘(らば)」「鸁(?)」など似たような字がいくつかある。 外側が同じで下の方に「羊」「馬」「虫」「貝」「女」「鳥」などが入っているのが共通している。 ついでだが「瀛(うみ)」というものもある。 たぶん外側の部分は一種の部首なのだろうが、あまりにマイナー過ぎてよくわからない。

誤植ということもあり得ようと思って、他にも永井荷風集など見てみたが、わざわざ漢詩を載せているものはなさそうなので、荷風全集が正しいとして、荷風は、おそらくは字をちょっとだけ変えて洒落てみたのだろうと思う。