ニ四不同・ニ六対

今日も平仄くんで遊んでいたのだが、 物の本によれば「ニ四不同」とか「ニ六対」という平仄の決まりがあるらしい。 「ニ四不同」というのは一つの句の中でニ字目と四字目の平仄が同じではいけないということ。 起承転結どの句でも、五言でも七言でもそうしなきゃいけないという。 「ニ六対」とは七言でニ字目と六字目の平仄が同じ、という意味である。 つまり、七言のニ・四・六番目は「平仄平」か「仄平仄」になっていなければならない。

しかし、李白の有名な詩 静夜思 でも、 [黄鶴樓送孟浩然之廣陵]/lab/pinyin/index.php?poetry=%E6%95%85%E4%BA%BA%E8%A5%BF%E8%BE%AD%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A8%93%0D%0A%E7%85%99%E8%8A%B1%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%B8%8B%E6%8F%9A%E5%B7%9E%0D%0A%E5%AD%A4%E5%B8%86%E9%81%A0%E5%BD%B1%E7%A2%A7%E7%A9%BA%E7%9B%A1%0D%0A%E6%83%9F%E8%A6%8B%E9%95%B7%E6%B1%9F%E5%A4%A9%E9%9A%9B%E6%B5%81) でもこの決まりは守られていない。

王維の超有名な詩 江南春 でも「十」が規則に当てはまってない。 「十」は普通に読めば「仄」だが「平」の読み方もあるので、そちらで読めば大丈夫、という苦しい言い訳もあるようだが、 少なくとも角川新字源にはそんなことは書いてない。

事例研究的にはいくらでも例外がありそうだが。

乃木希典の詩金州城下作はたしかに「ニ四不同」「ニ六対」ともにキチンと守られている。 あと、起承転結の四句で起承と転結では「ニ四不同」「ニ六対」が逆になり「反法」、承転では同じになる「粘法」、という決まりも守られている。 乃木希典のこの詩に関しては中国人も絶賛したとかしないとかという話があるのだが、 思うに、李白杜甫などはあまり平仄には気を使ってなかったのではないか。 後世になって科挙のようなもので平仄がやかましく言われるようになっただけではないか。 あるいは後世になってそういう規則性を発見して次第に定型化しただけではないのか。 江戸時代の儒学者清朝科挙の基準を遵守した、ということなのではないか。 すごくそんなきがする。 「反法」「粘法」などはあまり守られていないようだ。李白なんて全然守ってない。

それから、「通韻」とか「冒韻」などという決まりもあるという。 「通韻」とは似た韻どうしなら、平仄が違っていても押韻に使ってもよいという例外規則らしいのだが、 そんな例はほとんど見られない。少なくとも、私が今まで調べた範囲では。

「冒韻」とは押韻に使った韻は他の字では使っていけないという意味だが、これは割と守られているようだ。 李白は全然守ってない。 李白も守らないようなことを現代の日本人が守って意味があるのだろうか。 李白は「押韻」は守る。「冒韻」はしない。「通韻」は使わない。後は割と適当。 そんな感じ。 あと、押韻は「平声」と決まっているらしい。 これもほぼ完全に守られている。

「重韻」とは「悠々」「種々」「嬉々」など同じ字を重ねたもので、これは平仄の例外。 同じ字を二度使うなという規則にもひっかからない。 「畳韻」は「憂愁」「爛漫」「逍遥」など同じ韻の重なる熟語。これも平仄の例外。

「読み落とし」つまり、起句の押韻をはぶいたものは許容されるというが、あまり見たことがない。

現代中国語の普通語では、平声は第一声と第二声にあたり、 仄声のうち入声以外は第三声と第四声に当たる。 入声は普通語では消滅し、第一声や第二声にまじったり、第三声や第四声にまじったりしている。 だから、今の中国人ももともと入声だったものについては平仄を直感的には判断できないらしい。 逆に言えばわりと普通語でも平仄の違いがわかるということではないか。

平仄が違うが意味が似ている字は便利だ。 異韻類義語といって「加」と「益」、 「見」と「看」、「只」と「惟」、「知」と「識」とか(「看」は平仄どちらでも使えて意味は同じだからなお便利)。 しかし、ニュアンスはどう違うのか、ということがわからん。 わからんが平仄に従うしかない。