人の作りし物

あまりにもいろいろ手広くやりすぎて手に負えないので、いろいろ閉鎖中。 ウィキペディアンのお薦めも、休止します。 新しいウェブサービスの開発、という路線でもっていろいろやってみたけど、 今は正直なところ、まったく別のことに興味が出てしまい、 両立できない。

まあ、もともと飽きっぽいので、これから何やるかもわからんが、 今ゼミ生とラノベとかノベルゲーとかで遊んでいるので、 なんか技術的プログラミング的要素は少ないんだけど、 しばらくそっちで遊びます。

それはそうと某公立美術館で某展示があって某美大の某女子学生が、 女子高生の胸をもむというインスタレーションを作ったが、展示できないというので、 握手するようにデバイスを作り替えた。 手にスイッチがあって握手するとその圧力加減でいろいろしゃべるのだが、 その調整ができずいつも「痛いんですけど」とかそんな台詞をしゃべる。 この展覧会ではかつてやはり女性が、裸の上にだんだんほどけていく毛糸のセーターというものを着てパフォーマンスをしたことがあった。 また、うちのゼミ生も非常に困ったノベルゲーを作りたがるのだが、 アートとしてどこまで許して良いのかというのは、 つい最近大変問題になったことでもあり、 頭の痛いことだよなあ、特に指導教員の立場として。 そういうことが日常茶飯事的に起きるわな。

というわけでさりげなく「適切な指導をした」という証拠をブログに残しておくことにする。

ともかく、技術的なところから一歩アイディアとかコンテンツとかに踏み込むと、 そこにはいろんなハザードが存在している。 明らかに人畜無害なものも多いが、そうでないものもたくさんあって、 それが社会的に認知されてないと、いろいろ困ることもある。 だけど、アートを技術だけで押し通すのはとても疲れる。 たとえば3DCGなどはそれに近い。1年、2年と制作期間がかかるのは当たり前。

だが、アイディアさえよけりゃあ、デバイスは一週間で作れることもある。 小説だって、50枚書くのに1週間あれば十分だ。 3DCGよりは、ずーっと楽だ。

そのほか、今やいろいろと公開されたデータベースがあるから、それを拾ってくるとコンテンツは割と簡単に作れる。 ただコンテンツというものは非常に危険なのだよなあ。 何しろ人間が作り出したものだからな。

ところで、漫画の新人賞などは、たいてい原作も作画も一人でやるのだが、 たぶん、作画と原作はまったく違う能力なので、そうやって新人を発掘するのはどうなのかという気もする。 それはそういう学生と話す機会があってそう感じたのだが。 で、たとえば32ページくらいの読み切りで応募するわけだが、そうすると、 そこに盛り込める原作というのは非常に限られてくる。 登場人物の数にしろ、ストーリーの複雑さにしても。 比較的単純な仕掛けの話しかできないよなあ。それもどうなんだろ。 まあ、デビューしてから、もっと複雑な漫画描けばいいんだろうけど。 ノベルゲーにしても、あまり複雑なストーリーだと、グラフィックが一瞬にして破綻するわな。 たとえば、壇ノ浦の合戦みたいなものをノベルゲーにするにはどんだけ開発費がかかるか。 楽しようと思うと恋愛シミュレーションや推理サスペンスものになりがち。 ストーリーがラノベ的なものになりがち。 どうすりゃいいんだろうか。

モーツァルトのオペラだって原作や台詞は別の人が書く。全部モーツァルトが考えるわけではない。 これはまあ、企画書(或いは、コンテとか、ネームとか)を書いてから、作品を作るというプロセスに似ているのだが、 企画書書かずにいきなり制作すると、技術に引きずられて、中途半端なものが出来てしまいやすい。 企画書で立てた目標を達成するために、技術的な問題をいろいろクリアしつつ、スキルも磨いていく。 だから、作品が完成してから、それにあわせて企画書を書かれても困るんだよね。

ゲーム制作みたいに、分業でないと作れなくて、必然的にプロセスを分けなくてはならないものもある。 逆に、DTPみたいに、かつては分業だったけど今では一人でもできるようになったものもある。 プロセスを分けるべきか、分けない方が良いかは、一概にどちらとは言えないわな。 ただ、ゲームだとプロセスを分けすぎる傾向があるし、漫画は逆にプロセスが未分化な感じがする。