中野図書館報

図書館報が発刊されて、私の文章が載ったので掲載しておく。 図版はいくらなんでももう著作権が切れていると思うので、やはり載せておく。 「私の愛する本」というのは図書館報の連載記事でたまたま図書委員の私の順番だったのである。

私の愛する本 頼山陽日本外史

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私が初めて「頼山陽(らいさんよう)」を知ったのは、内村鑑三の「後世への最大遺物」を読んだときだった。その冒頭に掲げられた山陽の詩「十有三春秋、逝者已如水、天地無始終、人生有生死、安得類古人、千載列青史」(私は13才になった。歳月は水のように流れ、天地には始まりも終わりもないが、人生には生死がある。どうにかして昔の偉人たちのように、幾千年も歴史に名を残したいものだ)は、今読み返すとナイーブでやや気恥ずかしい詩にも思えるが、13才にしてこのように立派な漢詩を作った頼山陽という人に、そのとき15才だった私は、単純に嫉妬し、同時に強いあこがれを覚えた。

内村鑑三は、“Boys, be ambitious”で有名なクラーク博士に学んだ、明治期の代表的な熱血の人で、そういう内村鑑三と、江戸時代の頼山陽という人、そして昭和生まれの私が、別々の時間と場所で同じ感動を共有したような気持ちになった。小学校に残された二宮金次郎像のように、戦前は有名だったが戦後は意図的に無視された存在、その一つが頼山陽であって、彼の代表的な著作「日本外史」が幕末・維新に大きな影響を与え、また息子の三樹三郎は安政の大獄で処刑され、吉田松陰らとともに世田谷の松陰神社の境内に葬られていることなども、だんだんに知っていった。

頼山陽は、一見中国人風の名前であるが、広島藩儒学者の家に生まれた、れっきとした日本人である。「日本外史」は、一言で言えば、簡潔で力強い漢文体で書かれた武家叙事詩である。軍記物語などを出典とする。「欲忠則不孝、欲孝則不忠、重盛進退窮於此矣」(忠ならんとすれば孝ならず、孝ならんとすれば忠ならず、重盛の進退ここに窮まれり)は、もと平家物語の「悲しき哉、君の御ために奉公の忠をいたさんとすれば、迷廬八万の頂より猶たかき父の恩、忽ちに忘れんとす。痛ましき哉、不孝の罪をのがれんと思へば、君の御ために既に不忠の逆臣となりぬべし。進退これ極まれり、是非いかにも弁えがたし」に当たる。平家物語の方がいかにも冗長な印象を受ける。また、「鎧袖一触」の語源となった「至如平清盛輩、臣鎧袖一觸、皆自倒耳」(平清盛輩のごときに至っては、臣が鎧の袖ひとたび触るれば、皆おのづから倒れんのみ)は保元物語の「清盛などがへろへろ矢、何程のことか候ふべき。鎧の袖にて払ひ、蹴散らして捨てなん」に相当する。保元物語もなかなか味わい深いが、山陽独特の爽快な文体が小気味よい。漢学をたしなんだ当時の武士全員が山陽の愛読者だった。また山陽の詩、たとえば「川中島」の「鞭声粛々夜過河」なども好んで吟じられた。

私は今、門外漢の身ながら、日本外史を全編通して現代語訳しオンライン化しようとしている。いつまでかかるかしれないが、数年で終わらないのならば、老後の楽しみにとっておくこともできるだろう。これほどおもしろいテクストが戦後ほとんど顧みられず放置されたのは大損失だと思う。たまたま本学中野図書館に大槻東陽著「挿画啓蒙日本外史」(明治16年版権免許、20年初版、35年13版)が所蔵されていたので、その挿絵「源為朝、強弓ヲ挽テ官軍ノ艦ヲ覆ヘス」を掲載する。保存状態はあまり良いとはいえないが、貴重な書籍だと思う。